脊髄損傷の再生医療

これまで、「脳梗塞」や「脊髄損傷」の後遺症に対しては、悪化を防ぐ以外の治療法はないとされてきました。 しかし、自分の脊髄から採取した細胞で、神経が再生することが明らかになり、諦めるしかなかった後遺症への新たな治療が始まろうとしています。


■脊髄損傷の再生医療とは?

●”守りの治療”から”攻めの治療”へ

脊髄は背骨の中を走る重要な神経組織で、脳につながっています。この脊髄が事故などで損傷を受けるのが「脊髄損傷」です。 脊髄損傷が起きると、脳からの指令が損傷部位より先に伝わらないため、運動機能の深刻な故障が起きてしまいます。 従来は、脊髄損傷に対する有効な治療法はないとされてきました。 それは、脳や脊髄を構成する神経細胞は再生しないといわれていたからです。 脳の血管が詰まって脳が障害される「脳梗塞」も、同じ理由で、積極的な治療は行われてきませんでした。 これまでは、脳や脊髄が損傷を受けたら、後遺症が残ることは避けられないので、それ以上悪化させないことを目指した”守りの治療”が中心でした。 しかし、脳や脊髄の神経細胞を再生させる方法が見つかり、脊髄損傷や脳梗塞の後遺症を、 積極的に改善させる”攻めの治療”が可能になろうとしています。

●使われるのは脊髄にある細胞

脊髄や脳を再生する治療に使われるのは、脊髄から採取することができる細胞です。 再生医療というと「ips細胞」が話題ですが、これを使うわけではありません。 ips細胞は人工的に遺伝子を入れて作る細胞ですが、この治療では、自分自身の細胞を、そのままの形で使います。 だからこそ、問題が起こりにくく、実用化しやすい治療法なのです。

■治療の方法と効果

●微量の「間葉系幹細胞」を培養する

この治療に使われる細胞は、「間葉系幹細胞」というもので、骨髄液から採取することができます。 骨髄は主に血液の細胞を作る組織で、「赤血球」「白血球」「血小板」などになる細胞で溢れていますが、 その中に、全身の様々な細胞に変化できる間葉系幹細胞が含まれています。 その量はごく僅かで、骨髄に存在する細胞の0.01~0.1%程度しかありません。 この間葉系幹細胞は、一部が骨髄から血液中に出てきて、全身を循環しています。 そして、どこかに損傷を受けた部位があると、そこに集中的に集まってきて、それを修復する働きをしているのです。 対象はどんな部位でもよく、臓器でも、神経でも、血管でも、骨でも、筋肉でも修復します。 そこで、脊髄損傷や脳梗塞の治療に使われることになったのです。 脊髄損傷や脳梗塞の標準的な治療を行ったうえで、後遺症を軽減するために、神経の再生医療が行われるのです。

治療では、患者さんの骨盤から骨髄液を採取します。量は30mlほどなので、局所麻酔で行うことが可能です。 骨髄液から間葉系幹細胞を取り出し、これを約2週間かけて培養することで約1万倍ほどになった間葉系幹細胞を、点滴で患者さんの静脈内に投与します。 血液内に入った多量の間葉系幹細胞は、全身を巡り、損傷を受けている脳や脊髄に集まっていきます。 そして、その部位の修復を開始するのです。


●間葉系幹細胞の働きは主に3つある

間葉系幹細胞は、脳や脊髄の損傷部位で、次のような働きをします。

  • ▼間葉系幹細胞が神経細胞に変わり、神経細胞として働くようになる
  • ▼死にかけた細胞に対して、神経栄養因子を放出して助ける
  • ▼新たな血管を作って血流を回復させる

なぜこうした働きをするのかというと、間葉系幹細胞が、もともと体のメンテナンスを行う働きのある細胞だからです。 体は常に新陳代謝を行っており、古い細胞と新しい細胞が入れ替わっていますが、それにも間葉系幹細胞が関わっているのです。 また、全身の様々な部位に損傷が起きても、それは自然と修復されていきます。 皮膚の傷が自然に治るように、臓器に起きた場合も自然に治るのです。 よく”自然治癒力”という言葉が使われますが、その本体は間葉系幹細胞の働きにあるといってもよいでしょう。 間葉系幹細胞がこうした働きを持っていることが、最近になって明らかになり、治療に応用されることになりました。 血液中に含まれる通常の量では、後遺症を残すほど損傷を受けた脊髄や脳を回復させることはできません。 そこで、採取した間葉系幹細胞を、1万倍に増やしてから投与する方法がとられたのです。


●副作用はほとんどない

この治療の特徴の1つとして、副作用がほとんどないことがあげられます。 間葉系幹細胞を培養して数は増やすものの、もともと自分自身が持つ細胞なので、拒絶反応などが起きる心配がないのです。 投与された間葉系幹細が体内で行うのも、この細胞が通常に行っている仕事と同じです。 通常の仕事を後押しするだけの治療なので、副作用がほとんど出ないのです。


●脳梗塞に対する効果は明らか

実際の患者さんを対象にした臨床研究は、まず、脳梗塞を対象に始まりました。 7年前から行われており、有効な治療であることを示す研究報告も出ています。 下のグラフは脳梗塞の患者さんの後遺症が、間葉系幹細胞の投与でどう変化したかを示しています。 縦軸は、「脳卒中重症度スケール(NIHSS)」の値で、後遺症の程度を示しています。 「意識障害」「麻痺」「運動失調」「言語障害」などを総合的に評価するスケールで、重症な人ほど高い値になります。 この値が、間葉系幹細胞の投与によって、著しく低下していることがわかります。 投与して短期間で大きく下がり、その後も1年間にわたって、徐々に改善していくという経過をたどっています。 治療の時期に関しては、それ以前に行われた基礎研究によって、発症から早いほうが、回復しやすいことが明らかになっていました。 しかし臨床研究からは、発症後数か月経過した患者さんでも、治療によって後遺症がかなり改善することがわかっています。 脊髄損傷に対する治療効果は、基礎研究では証明されていますが、臨床研究では、まだ明らかになっていません。 しかし脳梗塞に対する治療と同じように、よい結果が得られるのではないかと期待されています。 脳梗塞に対する効果


■期待されることと、今後の課題

●患者さんの要介護度を改善する

これまで脳梗塞でも脊髄損傷でも、初期治療とリハビリテーションを行っても後遺症が残れば、それを改善することは望めませんでした。 そこで要介護認定を受け、要介護度に応じて介護を受けることになります。 この神経再生治療が目指すのは、後遺症を改善することで、要介護度を下げることです。 それは患者さんだけでなく、介護にあたる家族にとっても重要です。 日本で脳梗塞を発症する人は、毎年30万~40万人にもなり、今後さらに増えると考えられています。 脊髄損傷は毎年5千人ほどですが、10歳代や20歳代の人に多く、後遺症の影響はとても大きい。 この治療は、医療経済的にも、よい結果をもたらすと考えられています。 要介護度が高いほど介護費用が掛かるので、要介護度を下げることが、介護費用の低下に繋がると考えられるのです。


●治療の普及も望める

この治療は、自らの細胞を使って行うという画期的なものですが、実施することは決して難しくありません。 細胞の培養には専門的な施設が必要ですが、その部分を除けば、患者さんから骨髄液を採取し、培養して増えた間葉系幹細胞を点滴で投与するだけです。 これだけなら、日本全国の多くの医療機関で実施できます。


●効果と安全性の証明が必要

この治療が広く行われるようにするためには、培養した間葉系幹細胞が医薬品として認可され、健康保険で受けられるようにする必要があります。 そして、医薬品として承認されるためには、「治験」で有効性と安全性を証明する必要があります。 治験は、第1相から第3相試験に分かれ、投与量を決めたり、有効性と安全性を確認したりします。 現在、脳梗塞では第3相試験、脊髄損傷では第2相試験が進行中です。どちらの試験も主な参加条件があり、年齢は20~64歳となっています。 脳梗塞の治験は、「アテローム血栓性脳梗塞(初発)」で、発症から20日をめどに参加できる重症の人が対象で、 脊髄損傷の治験は、損傷部位が頚髄で、発症から14日以内に参加できる重症の人が対象です。 脳梗塞は第3相試験なので、治験参加者は無作為に2つのグループに分けられ、一方には治療薬(間葉系幹細胞を含む液体)、 もう一方には偽薬(間葉系幹細胞を含まない液体)が投与されます。 2グループの治療成績を比較することで、この治療の本当の実力が明らかになります。 治験が順調に進めば、脳梗塞では3~4年後(2014年現在)、脊髄損傷ではそれより後に、医薬品としての実用化が期待されます。