出 自 | 清和源氏源経基 | |||
派生氏族 | 八島氏族・ 善積氏族 | |||
派生姓氏 | 八島・谷島・則松・菱野・彦坂・世保・世安・小島・児島・原・岩滝 賀茂・加茂・開田・関田・木田・明知・明地・明智(以上美濃国) 白川・吉野(以上飛騨国) 高田・浦野・山田・水野・平野・葦敷く・柏井・拍合・柏合・大県 河辺・川辺・小川・小河・緒川(以上尾張国) 善積・東・辻・雨合・雨夜・豊田・和田(以上近江国) 足助・藤野(以上三河国) 鏡(甲斐国)・周波部(信濃国)・富田(山城国) 佐渡・尾張・相模・出羽・泉・三河(以上国司由来) |
多田満仲の弟満政(正)は、『族本朝往生伝』において、武門の勇士五人のうちに含まれている。相当な人物だったらしい。
左衛門大尉、兵庫允、左馬助、兵部丞、治部少輔などの京官のほか、陸奥・伊予・武蔵・美濃などの国司を歴任し、鎮守府将軍にも任ぜられた。
藤原氏が他氏排斥を狙って企てた事件、安和の変(安和二年=969年)では、検非違使として兄満仲に協力している。 早くから美濃国八島郷に土着して、八島太夫と称した。八島姓の開始である。 以降の系統も八島郷を根拠として、周辺に勢力を拡げ、美濃源氏として繁延した。 さらに飛騨・尾張・近江から三河などにも広がり、それぞれの地にちなんだ名字を名乗った。 中には、諸国の国司にもなり、その国名が苗字になったものもある。 満政流の主流は、最初は嫡系の八島氏であった。四代目の八島冠者重実が、平清盛と源義朝が争った氏の乱(平治元年=1159年)で、 敗者の源義朝の麾下に属して戦死したため、三男山田先生重貞の系統に、主流の地位は移った。 山田重貞が勢いを持ったのは、保元の乱(保元元年=1156年)で平家方に属し、源家方の鎮西八郎為朝を捕らえたからである。 功によって、平家から筑後守に任ぜられている。しかし、その二十年後、頼朝が天下を取ると、二人の子とともに斬首されている。 主流は重貞の嫡孫の次男・山田重忠に移った。しかし、重忠が承久の乱(承久三年=1221年)で京方に与同して戦死したため、満政流の主流は足助氏に移った。 後醍醐天皇の倒幕運動に参加した足助重範は、笠置落城後、京都で切られた。 足助重信・重氏は、新田軍に参加して鎌倉攻撃の際に戦死。 やがて建武新政成るや、功を賞されて安芸国豊田本郷片山を与えられて、片山姓を称した。 のち、足利義政に属したとき、片山を片桐と改めている。 |
源満政後裔略系図 |
満政 | -- | 忠重 | -- | 定宗 | -- | 重宗 | -- | 重実 | |||||||
| | L | 重長 | |||||||||||||
|-- | 忠隆 | ||||||||||||||
L | 忠国 |
経基王後裔諸氏族 |