清和源氏足利氏一門。足利泰氏の五男(六男とも)公深が三河吉良庄一色を領して一色氏を称した。
その子範氏は初代九州探題として西下。実があがらないまま帰郷したが、若狭・三河両国守護に任じられて発展の基礎を築いた。
範光の子義範は永徳元年(1381年)一色氏では初めて侍所頭人となり、尾張智多郡守護職も与えられた。その子満範は
明徳の乱の功績で山名氏の旧領うち丹後守護職を獲得し、幕府内でも四職家としての家格を確立した。
満範の後を継いだ次男義範(義貫)は、侍所頭人として幕政に参画したが、
将軍義政から疎まれ、永亨十二年(1440)義政の命を受けた武田信栄に謀殺された。
遺領のうち三河・若狭を没収、丹後だけ甥の教親に認められ、以後の本拠となった。
教親は 伊勢守護職を得、侍所頭人にもなるなど勢力の挽回に努めた。
教親のあと義貫の遺児義直、ついで義秀と続いたが、義秀は丹後国人衆に攻められて明応七年(1498)自害し、
義秀を継いだと思われる義清の代には守護代延永氏が専権を振るって主家と対立するなど、一色氏は衰退の一途をたどった。
そして、天正七年(1579)、細川忠興の率いる織田信長軍に攻められて、義道が敗死した。
義道の遺児義俊は許されてから信長から二万石を与えられ弓木城にいたが、天正十年
細川氏に攻められ滅亡した。ただ、義貫の兄持範の流れをくむ藤長は将軍義輝・義昭の近臣として活躍し、
その子孫はのち徳川家に仕え、幕臣として一色家の名跡を伝えたが、藤長から四代後の範永の代で断絶した。
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