【系譜】
頼信の末子(五男)義政は、早くから中央での官途に見切りをつけて東国に下り、常陸国の所領の開発と経営に従事した。
彼が所領にしたのは、同国の常葉保と、これに隣接する国井保である。
そのため、彼は常葉五郎とも称しているが、同時に国井姓の始祖ともされている。
なお通常の荘園は、荘、牧、杣、御厨などと呼ばれる。原則論理にいえば水田経営が主体なのが荘、牛馬の飼育をするのが牧、
薪などが中心なのが杣、そして伊勢神宮を領主に仰ぐのが御厨である。
「保」というのは、厳密には荘園ではない。国衙の諸官営に付属しているのが通例だから、一口に国衙領であるということもできるかもしれない。
義政が開発経営した常葉保・国井保がともに保であることは、東国に下ったときの義政がすでに国衙の官人だったことをうかがわせる。
また、義政の嫡男政清は「荒源太夫」と称したという。”荒”は勇猛であることを示し、”源”は名門源家の御曹司であるぞよということであり、
”太夫”は国衙の官人だった可能性を示している。
つまり、義政・政清の二代は、権力的に上部から常陸国の在地に乗り込んだということである。
政清は常葉太郎と称して、従五位下に任ぜられているが、これも中央との結びつきがまだあったことを示しているものといえよう。
その子政広は、常葉又太郎と名乗った。太郎のまた太郎だから、又太郎である。
当然、長男だったはずであるが、政広が国井源八と称したとも伝えられている。もちろんこれは源太の間違いであろう。
以降、この系統は国井姓を本姓として副次的に常葉姓を名乗ったりもしている。
この又太郎から数代の子孫に同名の常葉五郎政広というものが現れる。
源平合戦の頃に、頼朝の弟範頼に敵対して亡命したとも伝えられている。
ちなみに、常陸国には源氏が多い。佐竹、志田などがそれである。
いずれも源氏姓でありながら、共通して源平合戦には平家方になり、頼朝に敵対して攻められている。
この常葉氏もそうだったわけである。
しかし佐竹氏の場合は、のちに頼朝に降伏し帰順して、赦されている。
しかし、亡命した常葉政広は、ついに赦されるはずはなかった。
弘安(1276〜88年)、嘉元(1303〜1306年)の文書によると、国井保の領主は、鹿島大神宮大禰宜家、
応永七年(1400年)には、佐竹左馬之助の旧領であると記されている。
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