八幡太郎義家の七男義隆の生涯は、華々しいとはいいかねるものであった。生涯、ついに官途に就くことすらなかったのである。
父の陸奥守にちなんで陸奥七郎と称したが、信濃国佐久郡茂理郷に下って森冠者と称した。
しかし、最後まで官途に未練があって、再び上京したが、平治元年(1159年)の乱に源家の惣領義朝に従って敗れ、戦死している。
息男頼隆は、父の遺領茂理郷を伝領しただけでなく、進んで同国若槻荘をも領有して、若槻姓を称した。
若月、輪賀月、輪形月などと名乗る子孫があるが、いずれも、若槻の転化である。
頼隆の子の代で、この系統は二流に分立した。長男頼胤が若槻荘を伝領したのに対し、次男頼定が茂理郷を伝領して森姓を子孫に伝えたのである。
しかし、長男頼胤は、その孫の代でさらに分流した。惣領性的分割方式に従ったもので、
若槻荘内の押田郷が長男胤義と次男重胤が伝領してそれぞれ押田姓を名乗り、
三男頼輔が若槻本郷を伝領すると同時に若槻荘全体を惣領して、この一門の惣領となり、若槻の姓をを名乗った。
そして四男頼仲が若槻荘内の多胡郷と尾田郷の両郷を伝領して、多胡姓を名乗った。多胡は、しばしば田子とも書かれることがある。
なお、茂理郷を伝領して森姓を称した頼定の次男の系統が、この義隆流のなかでは、もっとも繁延した。
子孫の中から上野・笠合などの苗字を名乗るものが現れたのがその微証の一つであるが、上野・笠合に合致する所領の所在は不明である。
建武二年(1335年)の乱のときに戦死したと伝えられる弾正忠森太郎義信というものがあるが、その乱とはどこの合戦ことか判然としない。
いずれにしても、義隆流は南北朝・室町・戦国と討ち続く戦乱の中で、一度は姿を消す。
やがて、再び史上に姿を消す野は江戸時代初期の天和二年(1682年)十一月。
五代将軍徳川綱吉の母の桂昌院の紹介申請によって、森彦之丞頼俊というものが徳川家に仕えることになり、
厘米百五十俵を給されて西の丸詰めになったのである。この頼俊が桂昌院とどのような事情で関係ができたか、よくわからない。
しかし、かなり深い関係があったらしく、元禄元年(1688年)十二月には桂昌院方のお座敷番頭に登用されて五十俵を加増され、
その後も転々と昇格して、ついに上野国新田郡内において四百石を給される身分にまでなる。
以降、この系統は幕末まで旗本であった。
なお、森頼定の子孫からは、森可成・長可らが出て、織田信長・豊臣秀吉に仕え、その子忠政は江戸幕府下で美作津山十八万六千石の大名となっている。
|