(戦国大名)岩城氏系図

 

家    紋      
出    自       桓武平氏高望王後裔岩城氏族
氏    祖     岩城隆行・隆衡
派 生 姓 氏       荒川・岩城・岩崎・岩間・相葉・上田・大森・上遠野・片寄・
上船尾・鎌田・狐塚・菊田・絹谷・鯨岡・駒木根・酒井・石森
西郷・島・標葉・志賀・下船尾・住吉・関・玉山・谷・楢葉
田中・富岡・富田・東郷・中山・長谷・船尾・幕内・好島・小川
白土・行方・神谷・塩・大館・愛屋

 

 
岩城氏は、平氏繁盛流で隆行のとき常陸国から岩城に移住し、その子隆平が初めて岩城氏を称したと伝えられる。 南北朝期、岩城一族は次第に好島荘領所職の支配を排除し、岩城惣領の隆泰は文和三年(1354年)頃に伊賀盛光に代わって岩城郡の守護(検断職)を 務めていたとみられる。これ以前、岩城惣領は好島氏であったが、南北朝末期〜室町初期に白土常朝がその地位に就いたと推定される。 そして、室町中期隆忠の時に、伊賀(飯野)氏が完全に岩城氏の支配下に属し、各地に散在する一族を従え、岩城地方を統一した。 その後、親隆・常隆父子はは常陸の佐竹氏の内訌にに介入したり、重隆が娘婿伊達晴宗に与力して南奥羽を転戦するなど、 岩城氏の勢力は常隆・由隆・政隆・重隆の代に最盛期となった。 しかし、戦国時代後期には、佐竹氏の勢力が浸透し、岩城氏は佐竹氏への友好従属関係を深めていった。 天正十八年(1590年)常隆は小田原に参陣したが、同年七月二十二日、急逝し、その跡は佐竹義重の三男貞隆が継いだ。 関ケ原の合戦後、貞隆は所領を没収されたが、元和二年(1616年)、信濃国川中島で一万石を与えられた。 さらに、貞隆の子吉隆は同九年川中島の領地を由利郡に移され、同郡内において二万石を領有し、子孫は亀田藩主として明治に至った。 なお、常隆の死後、その子政隆が生まれ、政隆は慶長十二年(1607年)、伊達政宗の家臣となり、一門に列せられた。
 
岩城氏略系図(1)
  (岩城) (岩城祖) 岩城
高望 -- 国香 -- 繁盛 -- 安忠 -- 則通 -- 忠清 -- 清隆 -- 師隆 -- 隆行 -- 隆衡
  [兼忠] [忠衡]   [成衡]
 
岩城氏略系図(2)
岩城祖 岩城
安忠 -- 則道 -- 忠清 -- 清隆 == 師隆 -- 隆行 -- 隆平 -- 隆守 -- 義衡 -- 照衡 -- 照義 -- 朝義 -- 常朝 -- 清胤 -- 隆忠 -- 親隆 (⇒@)
(@)
親隆 -- 常隆 -- 由隆 -- 重隆 == 貞隆

 

岩城氏族