宇久氏系図

 

家    紋      
出    自       不明 / 嵯峨源氏松浦氏 / 清和源氏武田氏
氏    祖     宇久家盛
派 生 姓 氏      

 

 
【出自】
松浦郡宇久島より出る。五島氏の祖。 「渡辺綱曾孫久--松浦直--遊--守」宇久島に封ぜられ、宇久四郎と称する。宇久氏の祖である。 守の男宇久三郎祝は、桓武平氏小松内府重盛四男有盛を後嗣としたという。 五島氏家伝では、武田信義の四男有義の後裔といい、また武田義政の二男守盛は武田を改めて宇久としたともいい、 武田信弘が文治二年(1186年)宇久島に入り、初代家盛と改めたともいう。
諸説ありそ祖の出自は不明。
【戦国期の宇久氏】
宇久氏は宇久島を基盤に発展し、今川了俊による松浦一族の一揆契諾に参加、その後五島領主間で漁業権等をめぐる一揆契諾を再々にわたって結んでいる。 八代覚は福江島岐宿に入り、九代勝は岐宿から深江に移り、辰の口城を築き本拠とした。 その後、永正四年(1507年)、玉ノ浦納の反乱により囲は殺され、一時囲の子盛定は平戸に逃れ、平戸松浦興信の助けで盛定が福江島の 奈溜・大浜・貞方・玉ノ浦氏を支配した。そのころ福江島の田尾・玉ノ浦、中通島の青方・奈摩らの諸領主層を服属させている。 これらの領主層を一定の職制に整備した家臣団化がみられる。すなわち、浦中五人衆、六名宇、その他福江四人衆・上三頭・下三頭より成っている。 平戸松浦氏、志佐氏らの支配もあるため所領収取関係は複雑であった。 十八代純定はキリスト教の布教を行っている。二十代純玄は、豊臣秀吉の九州遠征に参陣し、一方、五千余石を受封して、居城を福江江川城に定めた。 その所領は福江・久賀・奈留・宇久・中通の五島南西部を領域とした。 朝鮮出兵には水軍をもって参加。小西行長に属して先鋒となり、初めて五島氏を称した。 文禄三年(1592年)現地で病没し、大浜玄雅が宇久盛長の子を養子とすることで遺領を相続した。 再び朝鮮に出動、豊臣姓を受け慶長八年(1603年)家康に会見して藩領を安堵された。 その後、明治維新に至って子爵を与えられる。
 
宇久氏族略系図
箕田 渡辺 松浦
-- -- -- -- --
 
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| | | (志佐)
| | L
| | 有田
| |-
| | 大河野
| |-
| |
| |- -- -- -- --
| | L -- -- -- -- --
| | 山代
| L
| 波多
|-
| 石志
|-
| 荒古田
|-
| 神田
|-
| (佐志)
|- 調 -- -- -- -- -- --
| | | 佐志
| | L -- 女子 -- --
| | | 波多 有田
| | |- --
| | | | 佐志
| | | L
| | L
| |
| | 宇久
| L -- --
| L 女子 -- 高直 --
| 松浦
L 高俊
 
桓武平氏説/清和源氏説
宇久 宇久孫二郎
平忠盛 -- 家盛 -- 女子 -- -- -- --
|| L -- -- -- -- -- -- -- -- (⇒@)
|| L
||
武田有義 -- 信弘 --
 
@
-- -- 盛定 -- 純定 -- -- 純玄
| | | 五島
| | |- 純堯 == 純玄 == 玄雅 == 盛利 -- 盛次 -- 盛勝 (⇒肥前福江藩一万二千余石)
| | | | |- 盛昭
| | | | L 盛清
| | | | 大浜
| | | |- 玄宗 -- 主水
| | | L 玄義
| | |- 定実
| | L 玄雅
| L 盛重 -- 盛長 -- 盛利
| L 頼繁 -- 政信
| L 雅定
| 大浜
|- 勝重
| [青方氏養子]
L -- 盛信
L 玄重

 

嵯峨源氏松浦氏   清和源氏武田氏