宇多天皇後裔諸氏族系図

 

派生天皇       醍醐天皇後裔
派生氏族       佐々木氏族
派生姓氏       六条・綾小路・庭田・田向・大原・五辻・慈光寺・西五辻・一条
佐々木野・三条・慈光院・鷹司・能登・灰塚・広幡・ 尾張・春日
井上、佐々木・万木・葛岡・鏡・大原・高島・平井・横山・田中
朽木・長田・近江・六角・山内・西条・烏山・京極・黒田・高谷
岩山・鞍智・甲良・馬淵・長江・堀部・青地・佐保・伊佐・山中
加地・磯部・倉田・野木・村・出雲・藍屋・高星・吉田
岡崎・山城・阿波・東郷・中村・三宅・和田・中西・原・大野木
能美・小倉・岡崎・春日

 

 
【宇多源氏】
宇多源氏は、第五十九代宇多天皇より出た源氏をいう。『尊卑分脈』によればこの天皇には@第六十代醍醐天皇、A斉中親王、B斉世親王、 C敦慶親王、D雅明親王、E敦國親王、F斉邦親王、G敦明親王、H敦実親王、I行中親王、J行明親王などがあった。 そして、親王の子たちに源氏が賜姓された。 この中から、第九皇子敦実親王の後裔が最も栄え、その子雅信は一条左大臣、重信は六条左大臣と呼ばれた。 子の系からは「堂上源氏」と呼ばれる公卿の諸家が誕生する。 すなわち、庭田・綾小路・五辻・大原・慈光寺の五家である。 また、敦実親王から数えて四代後の成頼は、近江に下り佐々木に住した。 この時に、この系は武士になったものと思われる。『佐々木系図』に曰く、「六ヶ国之守護、鎮守府将軍。智仁勇の三相を兼ね、弓馬の達人なり」。 近江源氏の先駆けである。そして、その孫・経方は、佐々木庄小脇で「佐々木」を称した。 さらに、その経方の孫である秀義こそ、後に近江源氏と呼ばれる佐々木一門の実質的な祖となった。 彼の子、太郎定綱・二郎経高・三郎盛綱・四郎高綱らは、そのいずれもが一騎当千の武将であり、後の征夷大将軍源頼朝に仕えた。
【佐々木兄弟の功績】
有名なエピソードとしては、治承四年(1180年)八月、伊豆韮山における源氏の旗揚げと、寿永三年(1184年)三郎盛綱による”藤戸の海渡り” および四郎高綱による”宇治川の先陣争い”が挙げられる。 治承四年八月十七日、まだ明けやらぬ伊豆国韮山の地に、時ならぬ合戦の炎が上がった。 伊豆目代・山木兼隆の館に、源頼朝の家臣及び北条時政などの一隊が攻め入ったのである。 この日は、ちょうど三島大社の神事の日と重なり、兼隆の家臣のほとんどは三島に出ており、山木館は手薄となっていた。 この時までに、すでに頼朝の家臣となっていた佐々木兄弟は、原木を北に進み、肥田原から牛鍬を経て、山木館に迫った。 そして、まず手始めに、多田の強者・堤信遠を斬った。一方北条時政の軍勢は八幡坂から進入し、これに加わる。 山木館には火が放たれ、ついに平兼隆も血祭りに上げられた。これが世に言われる「源氏の旗揚げ」である。 この事件をきっかけに、平家追討の大事業が開始されてゆく。 そして、このことは、源氏の旗揚げであったと同時に、宇多源氏佐々木一族にとっての「旗揚げ」でもあった。 寿永三年、源氏の軍勢は平家を追って西海に歩を進めていた。平家の大将・左馬頭平行盛は、備前児島に城を構築、来るべき決戦に備えた。 一方、源氏の軍勢は、これと海上三町ばかりを隔てた、藤戸の渡し口に陣を布いた。 しかし、辺りには平家の船以外には一隻の漁船さえ見当たらず、さすが武勇を誇る源氏のつわもの達も、立ち往生するしかすべがなかった。 平家の船は、見くびったように近寄ってきては矢を射かける。 こうした時、佐々木三郎盛綱が、郎党六騎を従えて現れ、「三郎盛綱が瀬踏み仕らん」と大声で叫んだとみるや、ざんぶとばかり馬もろとも藤戸の瀬に飛び込んだ。 これを見ていた源氏の将兵たちも、「佐々木に後れを取るな」とばかり、その後に続き敵陣に迫った。 その気迫に恐れをなしたか、平家の軍勢五百騎は、ついに島を捨てて沖に逃れたという。 その報を聞いて一番喜んだのは、鎌倉にいた源頼朝であった。「馬で海を渡るとは、古今未曽有のこと」と、盛綱に感状を与えて労をねぎらった。 このエピソードは、「藤戸」という謡曲になって今に伝えられている。 前述の三郎盛綱の弟・四郎高綱にも、先鋒争いのエピソードが残っている。 寿永三年正月、木曽義仲討伐のため、宇治川まで軍を進めた義経の軍勢は、ここで義仲軍と川を挟んで対峙した。 主君頼朝公から名馬とうたわれた”磨墨(するすみ)”を拝領して意気軒高の梶原景季は、何としても敵陣への一番乗りを果たさんと、心中ひそかに決めていた。 と、そこへ、佐々木四郎盛綱が、「頼朝公に無断で拝借してきた」と言って、”磨墨”にも勝る”生○(いかづき)”とともに、現れた。 ふたりは激流の宇治川に飛び込み、敵陣めがけて進んでゆく・・・・と、一足遅れた四郎盛綱が、先を行く景季に声をかけた。 「梶原殿、馬の腹帯がゆるんでおる!」一瞬、景季が躊躇している間に、高綱はさっさと敵陣に躍り込んでいたという。 してやったり四郎高綱。
 
宇多天皇後裔略系図
宇多天皇 -- 醍醐天皇 (→醍醐天皇後裔
  |- 斉中親王  
  |
  |- 斉世親王 -- 英明---- -- 清時 -- 為基
  | | | |- 為衛
  | | | L 儀光
  | | |- 幹時
  | | |- 忠時
  | | L 尭時
  | |
  | L 庶明  
  |- 敦慶親王  
  |
  |- 敦世親王 -- 後古
  | L 方古---- -- 義忠
  |
  |- 敦固親王 -- 宗室
  | |
  | |- 宗城
  | L 寛忠
  |- 斉邦親王  
  |- 載明親王  
  |- 雅明親王  
| 庭田
  |- 敦実親王 -- 雅信---- -- 時中 -- 済政 -- 資通 -- 政長 -- 有賢 -- 資賢 -- 時賢 -- 有資 -- 経資 -- (→庭田家)
| | | | | | 大原
| | | | | L 栄顕(→大原家)
| | | | | 綾小路
| | | | L 信有(→綾小路家)
  | | | |- 信時
  | | | |- 重時
  | | | |- 雅時
  | | | |- 則季
  | | | |- 朝任
  | | | |- 経相
  | | | L 有章 -- 章仲
  | | |- 扶義 -- 経頼 -- 清房
| | | | L 信房
| | | | 佐々木 京極
| | | L 成頼 -- 義経 -- 経方 -- 為俊 -- 秀義 -- 定綱 -- 信綱 -- 氏信 (→佐々木氏)
| | | | | | 六角
| | | | | L 泰綱 (→佐々木氏)
| | | | L 広綱
| | | L 盛綱
  | | |- 通義
  | | |- 時通 -- 雅通 -- 雅孝
  | | |- 時叙
| | | 五辻
| | |- 時方 -- 仲舒 -- 仲頼 -- 仲康 -- 仲棟 -- 仲親 -- 光遠 -- 仲兼(→五辻家)
| | | L (→慈光寺家)
  | | L 済信
  | |
  |   |- 重信---- -- 致方
  |   | |- 道方 -- 経長 -- 道長
  |   | | |- 経親
  | | | |- 経信 -- 基綱
  | | | | |- 通時
  | | | | L 俊頼
  | | | L 経隆
  | | |- 宣方 -- 親方 -- 師信
  | | | L 親綱
  | | |-- 相方 -- 慶方 -- 頼方
  | | L 乗方
  | |
  | |- 寛信
  | |- 寛朝
  | L 満慶
  |- 行中親王  
  |- 雅明親王  
  |
  |- 行明親王 -- 重煕
  L (清氏) (宗像)  

 

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