派生天皇 | なし | |||
派生姓氏 | 不明 |
陽成天皇は、清和天皇の第一皇子で、貞観十年(886年)に染殿院で誕生。九歳で即位した。 在位は八年間であったが、天暦三年(949年)に八十二歳で崩御するまで、院としての年月が長かった。 母は藤原長良の娘で太政大臣藤原基経の妹であった。 彼女は若いころ、有名な美男在原業平と駆け落ちしたことがあり、また、後年、ある僧とスキャンダルを起こしたこともあった。 陽成天皇はそのような母の血を引いているためか、成長するにつれ、愚かなうえに凶暴な性格が出てきた。 『日本三大実録』に、元慶七年(883年)に宮中で陽成天皇の乳母が殺され、犯人が不明であると記してある。 これは、その下手人が、天皇であったので、記載を遠慮したのであろうといわれている。 ために、その年の新嘗祭など重要な行事が皆中止になった。これに対し、摂政の藤原基経は、すぐに天皇の身辺にあった人々を追放している。 やがて、陽成天皇は病気のために退位したいという詔を出した。いわゆる摂政による天皇の廃立である。 そして、次の帝位をめぐって左大臣源融もその意思のあることを吐露している。 結局、仁明天皇の第三皇子時康親王が選ばれた。 |
【六孫王源経基の異説】 |
さて、清和源氏の出自について陽成源氏と関連する異説がある。 明治三十三年、星野恒博士は石清水八幡宮の古文書の中に、源頼信の告文を発見して、「六孫王ハ清和源氏ニ非ザル考」(『史学雑誌』)を発見した。 その論拠とするところは、告文の系譜の部分に「先人、新発(満仲)、その先経基、その先元平親王、その先陽成天皇、その先清和天皇・・・・」とあるによる。 星野恒博士はこの文をもとに六孫王(源経基)の陽成源氏説を展開している。 |
陽成天皇後裔略系図 |
陽成天皇 | -- | 元良親王 | -- | 佐材王 | |||||||||||||||||||
| | |- | 佐材王 | |||||||||||||||||||||
| | |- | 佐時王 | |||||||||||||||||||||
| | |- | 佐頼王 | |||||||||||||||||||||
| | |- | 佐兼王 | |||||||||||||||||||||
| | | | 源 | |||||||||||||||||||||
| | |- | 佐芸 | |||||||||||||||||||||
| | | | 源 | |||||||||||||||||||||
| | |- | 佐平 | |||||||||||||||||||||
| | | | 源 | |||||||||||||||||||||
| | L | 佐親 | |||||||||||||||||||||
| | 源 | ||||||||||||||||||||||
|- | 元平親王 | -- | 兼名 | ||||||||||||||||||||
| | 源 | ||||||||||||||||||||||
|- | 元長親王 | -- | 兼明 | ||||||||||||||||||||
| | 源 | ||||||||||||||||||||||
|- | 元利親王 | -- | 忠時 | ||||||||||||||||||||
| | 源 | ||||||||||||||||||||||
|- | 清芸---- | -- | 兼房-- | -- | 延幹 | -- | 兼行 | -- | 兼任 | ||||||||||||||
| | | | | | L | 祐頼 | |||||||||||||||||||
| | | | L | 相奉 | -- | 良任 | ||||||||||||||||||
| | |- | 忘江-- | -- | 真頼 | |||||||||||||||||||
| | |- | 兼材-- | -- | 高雅 | |||||||||||||||||||
| | L | 兼基 | |||||||||||||||||||||
| | 源 | ||||||||||||||||||||||
|- | 清蔭 | ||||||||||||||||||||||
| | 源 | ||||||||||||||||||||||
|- | 清鑒---- | -- | 公貞 | ||||||||||||||||||||
| | |- | 公輔 | |||||||||||||||||||||
| | L | 公雅 | |||||||||||||||||||||
| | 源 | ||||||||||||||||||||||
L | 清遠---- | -- | 景明 | ||||||||||||||||||||
L | 有忠 |
天皇家略系図 | 清和天皇後裔諸氏族 |