藤原南家左大臣武智麻呂の四男乙麻呂の後裔為憲は、伊豆・駿河の国司となり木工頭であったので工藤氏と称し、
為憲の後裔維職が伊豆押領使任じられ、伊東庄に住み、伊東氏となったという。
維職の曾孫祐継の系譜が日向国伊東氏となる。祐継の孫、祐時が建久九年(1198年)日向国の地頭となり、
その子祐朝が建長四年頃、現地に下って伊東氏の基礎を築いた。
五代祐持は、足利尊氏に従い、戦功を挙げ、建武二年(1335年)児湯郡都於郡300町を与えられ、この地に都於郡城を築く。
祐立・祐堯の頃から勢力圏を拡大し、青井岳、天神山嶺以東の山東は伊東領といわれた。
義祐は同族の内紛を抑えて、天文五年、佐土原に入り就封し、同十年から島津氏と飫肥城をめぐる攻防を繰り返し、
永禄十一年(1568年)に至って伊東氏のものとなり、次男祐兵を入れた。
しかし元亀三年(1572年)島津義弘に木崎原で大敗、家臣の反乱により、天正五年、豊後に逃避し大友氏の援けを求めた。
祐兵(祐隆・祐丘)は、兄義益の跡を継ぎ、大友宗麟の島津遠征軍に参加し、島津義久・家久の軍に大敗、日向復帰の願いは絶たれた。
天正十年、祐兵は秀吉の下で山崎の合戦等に戦功があり、河内国五百石を得た。
その後、秀吉の九州遠征には彼の地の案内役となり下向し、功により飫肥城に復帰、曽井・清武・飫肥五万国を与えられ、のち豊後守と改めた。
その子祐慶は関ヶ原の戦いの折に、病の父祐兵に代わって出陣し、その戦功によって本領を安堵された。
伊東氏はその後、明治に及び子爵を授けられた。
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