宗氏系図

 

家   紋       宗氏家紋
出   自       秦氏族惟宗氏流(称)平 知盛裔
氏   祖       (惟宗)知宗 ・ 宗 重尚

 

 
平知盛の後裔といい、初代知宗は大宰府府官惟宗氏といわれ、寛元四年(1246年)、大宰府に反抗した対馬の在庁官人阿比留氏を重尚に討たせ、 鎮西奉行少弐資能から対馬地頭職を得た。重尚から宗氏を名乗る。助国は、元軍の対馬来襲に力戦、戦死した。 経茂は少弐貞経に従って北条英時を討ち、その子頼茂は少弐頼尚の下で尊氏上洛に従い、戦功により対馬支配の実権を把握した。 貞茂は応永十五年(1408年)三根村に居館をおいた。子貞盛は少弐教頼を援けて、大内持世の来攻に抵抗したが制圧され、 宗氏は筑前の権益を失い、以来、貿易による領国経営策をとり、嘉吉三年(1443年)朝鮮との交易を取り決めた。 十二代材盛は少弐政資を援けて、大内義興と戦い、敗れて本土を喪失、十三代義盛から大内氏(義興)に属した。 十六代晴康は天文十五年(1546年)に島内三十八氏の宗姓の使用を禁じて領主権の確立を図った。 十七代義調は、積極的な経営を行い、家督を将盛の子に譲ったが、引き続き後見した。 天正十五年、秀吉によって対馬の知行を安堵された。翌十六年義智が襲封し、文禄元年(1592年)より朝鮮出兵の先導を務め、また両国の和議の交渉に当たる。 関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、本領を安堵され、慶長十二年(1607年)家康の指示によって両国の講和を成立させ、功を賞された。 元和二年(1616年)義成襲封、柳川調興との内紛を解決し、以後朝鮮との唯一の交渉権を認められ、格式十万石の大名となる。
 
惟宗氏略系図
信房 -- 重国 -- 信国 -- 重尚 -- 盛就
|- 盛忠
|- 信方
|- 資質
|- 盛賢
L 助国
宗氏略系図
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
知宗 -- 重尚 -- 助国 -- 盛明 -- 盛国 -- 経茂 -- 頼茂 -- 貞茂 -- 貞盛 -- 成職
L 盛就
| 11 12 13
L 盛国 -- 貞国 -- 材盛 -- 義盛
|
L 盛家 -- 盛長 ( → )
14 15 16 17
盛長 == 将盛 == 晴康 -- 義調
| 18
|- 茂尚
| 19
|- 義純
| 20 21 22 23
L 義智 -- 義成 -- 義真 -- 義倫
| 24
|- 義方
| 25 27 29 30 31 32 33 34 35
|- 義誠 -- 義如 -- 義暢 -- 義功 -- 義質 -- 義章 -- 義和 -- 重正 -- 重望
| 26 | 28
L 方熈 L 義蕃

 

秦氏族