陶氏は大内氏十五代貞成の次男盛長が右田氏の祖となり、その曾孫弘賢が吉敷郡陶村に分かれ、陶氏を称したのに始まる。
弘賢の子弘政は都濃郡富田に移り、若山城を経営し、本城とした。
弘政の子弘長は大内氏の重臣となり、応永八年(1401年)長門守護代に任じた。
五代盛政は永享四年(1433年)周防守護代となり、以後、この職を世襲し、大内家臣団における地位を不動のものとした。
六代弘房は応仁の乱に出陣し、京都で戦死した。その子弘護は守護大内政弘不在の領国をよく守ったが、
文明十四年(1482年)、吉見信頼と争って刺殺された。
弘護の子興房は文武兼備の良将で、大内家家臣団の中心にあって義興を補佐した。
興房の長男興昌は、父に先だって戦死したため、次男隆房(のち晴賢)が十九歳で家督を継いだ。
陶氏は代々周防守護代の地位にあり、各人とも知略に富み、忠誠心も厚く、歴代大内氏に信頼され、家老中の筆頭であったが、
戦国期に入ってますますほかの家臣の追従を許さぬほどの勢力を有するに至った。
とりわけ隆房は武人としても政治家としても、優れた能力に恵まれていたから、主君義隆の文弱的傾向を好まなかった。
天文十二年(1543年)出雲遠征に大敗すると、義隆は武断派の隆房を疎外したので、隆房は同二十年兵を挙げ、義隆を大寧寺に自刃させ、実権を奪った。
しかし弘治元年(1555年)の厳島合戦で毛利元就に敗れ、父子ともに自害し、陶氏は断絶した。
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