児島屯倉の職員の後裔。この屯倉は欽明紀十七年條に「遣蘇我大臣稲目宿禰等於備前児島郡置屯倉、以葛城山田直瑞子為田令」と、
また、敏達紀十二年條に「日羅等行到吉備児島屯倉」と見えるもので、和名抄に児島郡三家郷とある地に存したものであろう。
この氏の出自を天日槍の裔とするのは採り難い。これは記紀、姓氏録等三宅連を天日槍の裔とするからであるが、
其の実、三宅氏に数多くの流があり、これらはすべてその職名を氏としたものだから、各屯倉の首長家の異なるのに順い幾流もあると思われる。
次に浮田家譜及び宇喜多能家書像の賛等に、その祖は百済より出るとしている。即ち能家の賛に「○按和泉前司能家牒、上世居乎百済國、
甫兒字、兄弟三人泛舟来チ備前一島、始○新第、旗幟皆書兒字為紋矣、仍其處曰兒島焉、中歳、立姓称三宅、而有武名、諸孫瓜蔓乎備之郷邑、而号宇喜多」
とあり、これは豫章記に「孝霊天皇--伊予皇子(和気乃姫遠娶留、三子遠産利、怪異乃思遠生天、空船仁乗世天、海上仁流須、云々、
三子皆被海童養天、吉備乃島仁著久、則備前兒島是也、嬰児各宅於造天、三宅有、初産波幼少仁志天、是仁留流、三宅氏曩祖是也、云々」
また、下記系図(1)とあると同神話で、共に大山積神の百済渡来の古伝説より来ている。
この神話は、伊予国風土記に「宇和郡御島座神、御名大山積神、一名和多志大神也、是神者、所顕難波高津宮御宇天皇御世、此神自百済國渡来座、
而津國御島坐云々、謂御島者津國御名也」とある。このように此の氏及び越智、庵原の諸氏が、総てこの神話を以て祖先の出処を説明するのを見ると、
その間に一族の脈絡あることがうかがわれる。其れはイオハラ、コジマ条に述べたように、此れ等の諸氏が総て大山津見神を氏神とするのによる。
即ち、神の伝説を以て、自家の出自を説明したものである。而して孝霊帝より出るとするのは庵原氏の吉備氏族であるばかりでなく
此の氏もも又吉備氏族であるからである。吉備氏族は孝霊天皇皇子吉備津日子より出て、吉備地方の諸国造家上道、下道、笠等の諸氏も多くこの族である。
地方の屯倉は多くは国造に管理させた者であるが、この伝説より考えると、児島屯倉もまた其の所在地の国造の吉備氏の掌ったもので、
後に職名を氏としたらしい。即ち此の三宅氏は吉備氏の族となすべきである。
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